カラブリア州の強制収容所・フェラモンティ(Ferramonti)強制収容所



第二次世界大戦の頃、イタリア各地にも作られた強制収容所。
ヨーロッパの政治中枢からはるかに遠い場所に思えるカラブリア州コセンツァ県には、ヨーロッパで最初にユダヤ人のために作られた収容所 (Il campo di internamento di Ferramonti:フェラモンティ強制収容所) がありました。

注:1940年以前にも収容所は各地にありましたが「ユダヤ人の収容」を目的に建設されたのはフェラモンティが最初とされています

毎年1月末のこの時期に記念式典が開催されるのですが、2021年は国際ホロコースト記念日でもある1月27日の開催となりました。式典についての記事はこちら(イタリア語の記事です)

「強制収容所」という物を存在をさせてしまったこと自体がカラブリア州の恥と考える地元有識者が多い一方、我々が抱く「強制収容所」のイメージとは少し趣の異なる収容所だったフェラモンティ収容所をご紹介します。

少し長いので興味のある方だけどうぞ。

フェラモンティ強制収容所は、当時ばりっばりのファシスト路線だったイタリア政府によって、コセンツァ県タルシア(Tarsia)市のクラーティ川沿いに1940年6月ごろから9月にかけて建設されます。

収容者はカラブリア州外から連れてこられた人たちで、ユダヤ人をはじめ、政治犯、異教徒や思想犯という名目の東欧出身者や反社会分子とされた人たち、さらにイタリアが戦争突入当時に(不運にも)イタリアで就労していた中国人グループも収容されていました。この中国籍の方たちの多くが、ちょうどベネチア港に停泊していた船舶の労働者ともいわれています。

後述しますが、収容所内での出産や大変低かった施設内死亡率などにより、1943年9月の開放時点で2000人を超える収容者数はヨーロッパでも最大規模。
解放後も引き続き居住を望む人が多かったため、完全閉鎖されたのは1945年12月でヨーロッパで一番最後に閉鎖された収容所となりました。

泥湿地帯に作られた施設内でマラリアが発生したものの、これは当時のタルシア一帯の農家の悩みでもありました。地元民もマラリアに苦しみ、農耕地不足に悩んでいて、大規模な灌漑・農地改革がまさに行われようとしていた時代でもあります。

TOPの写真は収容所跡地が左奥、右奥のイオニア海にかけてシバリ平原が広がる一帯を撮影した物。この時代の灌漑・農地改革のおかげで、この一帯は州北部最大の農耕地帯となり、現在ではかんきつ類・果実の栽培が盛んです。

なかでもこの一帯が南伊最大の稲作地帯となったのは、戦前・戦中・戦後とマラリアと戦いながら灌漑作業を進めた地元民・この地に残る事を決めた元収容者の方たちの功績です。

@MuViF

収容所内で非人道的行為や暴力は一切行われなかったとされています。(強制収容所の存在自体が非人道的ですが)

フェラモンティ強制収容所跡に作られた博物館にも展示資料がありますが、収容者を監督する立場にあった軍・警察関係者、地元宗教関係者、さらに地元住民(主に農家)は、収容者たちと積極的に交流し、彼らの生活を手助けしていたという記録が残っています。

さらに、施設管理者がドイツや中央政府による再三の収容者の移送命令に背き独自の運営を続けた為、この収容所からドイツ方面や他収容所に移送された者はおらず(つまり、所謂ガス室に送られた人はおらず)、収容所内に作られた充実した設備・医療施設のおかげで、収容者たちは一定の文化的水準を保った生活をしていたとされています。

ここに、イタリアの他地域にあった収容施設と大きな違いがあるとされています。

ナゼその命令に従わなければならないのかを主体的に考える(中央の言う事を聞かない)という姿勢は、カラブリアらしいと言えばカラブリアらしいのですが…この収容者を取り巻く、非人道的な施設における非常に人道的な環境は、後にヨーロッパ近代史の権威Jonathan Steinberによって「ヨーロッパ一偉大な」場所だったと高く評価されました。

様々な収容所について(概要)

強制収容所:人種・思想などを理由に人を「強制的に」収容する施設。収容者は自由を厳しく制限され、厳しい管理下の元で強制労働に従事するのが一般的。
通過収容所:他の収容所へ移送途中の収容者たちを一時的にとどめておく施設ながら、強制労働も。イタリア国内ではクーネオやボルツァーノ収容所が有名。
絶滅収容所:アウシュビッツに代表される設備を持った施設。イタリア内ではトリエステ収容所が有名。



強制収容所ながらフェラモンティの収容者たちは、例えば:

・郵便の受け取り、外出などは基本的に自由(夜間は除く)

・収容者子女は地元学校へ登校。地元の一般生徒と同じ授業を受ける←他地域では収容所敷地内や特別区域(ゲットー)に「特別学校」が作られていました

・収容所内の自治。収容所内に独自の図書室や歌劇のオーガナイズなど

・収容所内に衛生拠点を設置。地元民と同レベルでマラリア感染症に対応

・地元住民、収容所監督者たちと「人間的な(資料ママ)」の交流


など我々がイメージする「強制収容所」とはだいぶ異なった生活を送っていた記録や証言が残されています。

収容所内で亡くなった方は、そのほとんどがマラリア感染による死者で、コセンツァ市またはタルシア市の墓地(市営・共同墓地)に埋葬されています。つまり、亡くなった方を正しく記録し、市民として埋葬しているのです。

現在、コセンツァ市に埋葬された21人については全てのお墓が判明していて訪問可能。タルシア市共同墓地に埋葬された16名のうち4名のお墓は確認され、残りは調査中です。

また最近の調査で、北伊に送られた家族の元に行きたいと希望して、収容所が移送手続きを行った人が1名いることが判明しました。
収容所側がなんとか引き留めようとした資料もあり、関係者のうち少なくとも上層部は、他収容所で発生していた事態を把握していた様です。

この方の家族は北伊の通過収容所からドイツの絶滅収容所に移送された後の事だった様ですが、この方のカラブリア州を出た以降の足取りは不明。現在も調査中です…

@MuViF

タルシアから車で40分の距離にあるコセンツァ市では、イタリアの他地域の様にユダヤ人用区域(ゲットー)が作られる事も無く、密告による逮捕が盛んだった地域(主に北~中部に多かった)と比べるとだいぶゆったりした「ユダヤ人対策」が取られていました。つまり…中央の言う事を聞かないカラブリア流平常運転です。(だからこそ色々問題が発生するのですが、これはまた別の機会に)

これには、もともとカラブリア州内に住んでいたユダヤ人の数が極端に少なかったことも影響していると考えられています。

収容者はコセンツァ市でのお買い物の為の外出(公共交通などを使った1日がかり外出)が可能だった事がわかっていて、その日のうちに施設に戻ることが出来れば頻繁にコセンツァ市を訪問していた様です。これは、義父が生前残した言葉にも合致します。

資料や証言によると、コセンツァ市民は収容者を普通の客として扱い「収容者だから」といった差別をするよりも「理不尽な目にあっている気の毒な人たち」と親切にしていた様で、義父は、この時期、コゼンツァ市まで買い物に来ている収容者をよく見かけたと話していました。収容者とわかる服を着ていたけれど「普通に買い物に来ていた」と。

余談ですがコセンツァ市はカラブリア州北部の政治・交通の拠点で、ムッソリーニも演説に訪れている街。そのような街に堂々と収容者たちが買い物に来ていたわけです。

収容所があったタルシア市民との関係はもっと密で、施設内で開催された歌劇を市民が鑑賞したり、農作業などを通じた日常的な交流がありました。このような事情も解放時に引き続き収容所に居残る事を決めた収容者がほとんどだった事の理由の1つと考えられています。

もちろん、解放時(1943年9月)にイタリアやヨーロッパの他地域で戦闘行為が終了していなかった事も彼らがフェラモンティに居続けることを選んだ大きな要因ですが、冒頭でご紹介した本年の記念式典に収容所内で生まれた人が複数参加するなど、強制的に連れてこられた土地で新しい人生を始めた人たちが多くいた事が推察されます。

@MuViF。収容所施設の様子

例年、社会科見学の学生たちやイスラエルやアメリカから関係者が多数訪問するフェラモンティ強制収容所跡地での式典でしたが、時節柄本年はタルシア市市長などが参加し、規模を小さくして開催されました。

式典に際し市長は、フェラモンティにおいては「強制収容所」の言葉が持つイメージから離れた生活が保障されていたとしても、住み慣れた場所から強制的に連れて来られ、不便な生活を強いられた人たちがいたこと。
さらに解放前に収容所内で亡くなった方たちもいたことについて、このような非人道的な施設の存在そのものを許してしまった「恥」の記憶を後世に伝えたい旨を述べました。
まさにその通りだと思います。

なお、資料博物館MuViF (Museo Virture Ferramonti) のHP()からも跡地の様子を知ることが出来ます。
博物館訪問は要予約。(時節柄、現在は閉館しています。)

Special thanks.
記事作成時(2016年初め)、収容者遺族の方と資料館関係者のご好意で施設内見学と貴重なお話を伺うことができました。
ここで御礼申し上げます。
また、証言を残してくれた義父にも感謝を。義父の言葉がなかったら、収容所の存在すら知らずに過ごしてしまっていたかもしれません。
そして義父の話を聞いていた当時、イタリア語理解力が足りなくてあいまいだった私の知識を補完し、辛抱強く導いてくれた夫にも感謝します。

今後二度とこのような悲劇が起こらないように、祈りをこめて。

国際ホロコースト記念日(1月27日)に際し、旧ブログの記事(2016年6月13日公開。現在ログだけ検索可能)を一部改訂・加筆しました。

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